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よくわかる北朝鮮旅行2016年5月 by 神谷奏六

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北朝鮮の観光スポット 板門店に北側から行く(2)停戦協議場と、調印式の建物へ

「アメリカが戦争を煽って来るので、それに対して必死で対抗している」という説明を非武装地帯の入口で受けたら、いよいよ停戦協議場と軍事停戦委員会本会議場がある板門店へ入って行きます。





1.朝鮮戦争の停戦協定までの背景

ジャーナリスト・池上彰氏の著書「そうだったのか! 朝鮮半島 (そうだったのか! シリーズ)」には、朝鮮戦争の開戦から停戦に至るまでの経緯、そして非武装地帯が形成されてから今に至るまでの歴史も詳細にまとめられています。

北朝鮮側からの侵攻で開始した朝鮮戦争は、序盤は北朝鮮側が優勢で朝鮮半島統一の寸前まで攻め込みます。

ところが、その後、韓国側にアメリカ軍、次いで16カ国連合の国連軍が参戦すると、北朝鮮軍は後退し、今度は韓国+国連軍(ほぼ米軍ですが)が朝鮮半島統一まで攻めこむと、毛沢東が北朝鮮側の援護として中国軍を送り込みます。

ここで再度、北朝鮮+中国軍が押し返すのですが、その後は南北軍ともに、半島統一するところまで攻め込めずに、朝鮮半島の真ん中、だいたい北緯38度線前後くらいのところでにらみ合いみたいな感じになります。

戦争は本拠地から前線までの間の人員や物資を補給する距離(補給線)が短ければ楽な、長ければ苦しい戦いになりますが、米軍は北に、中国軍は南にそれぞれ補給線を伸ばしたところがそれぞれの補給線の長さの限界で、その場所がだいたい38度線らへんだったということです。


ここでアメリカが、この辺で停戦協定を結ばないか、と持ち出します。

ところが、南北分割統治のままにしておきたいアメリカ、中国、あとはこっそり北朝鮮側で参戦していたソ連に対して、武力統一を成し遂げたい北朝鮮の金日成と、韓国の李承晩(イスンマン)が抵抗。

結果、停戦協定は難航し、約2年間にわたって、「こんな条件で、一度停戦としたらどうだろうか?」「いや、南北統一だ。」という押し問答が繰り返され、結局、当時の双方の戦線が膠着していたラインを軍事境界線として停戦とすることに決まりました。

北側は北朝鮮と中国、南側は国連の名の下にアメリカが停戦協定書にサインをします。
(韓国は最後までこの停戦の内容を不服としてサインをしませんでした。)

そして、それらの交渉が行われた場所が、この板門店にある停戦会議場(最初の頃、停戦交渉が行われていた建物)と、休戦会議場(後半の交渉と、停戦協定へのサインが行われたところ)です。






2.停戦協議場へ

非武装地帯に入って、最初に行くのは停戦会議場です。

この「停戦会議場」と、その次に行く調印式を行った建物である「休戦会議場」は軍事境界線の北側にあるので、北朝鮮側から板門店を訪問した際にのみ見れる、レアなスポットです。


北朝鮮の観光スポットあるあるですが、「ここに金正日は4回、金正恩は1回、訪問された。」という碑が建っています。



停戦会議場の建物は、ゴルフ場のコース内売店をちょっと大きくしたような、カンタンなつくりの建物です。

この停戦会議場の真ん中には入口から見て横長にテーブルがあり、現地でガイドをしてくれた朝鮮人民軍の軍人いわく、

「入口側に朝鮮、奥側にアメリカが座り、合計718回の停戦会議が行われた。」

とのこと。

いや、途中で長期の中断もあったのに2年弱で718回は無理だろう。
よほどダブルヘッダーでも組まない限り・・・。


また、軍人いわく、

「当初のアメリカの要求は今の軍事境界線よりもはるかに北に境界線を引きたいというもので、平壌を南側に含むというまさに強盗的な要求であった。」

そうです。




3.休戦会議場(停戦の調印式が行われた建物)へ

停戦会議場と同じ敷地内に、「休戦会議場」があります。

ここは少し広い平屋になっていて、停戦協定の調印式の様子などが展示されています。

1953年の7月27日に、ここで調印式が行われました。

流れとしては、この建物にて国連代表としてアメリカのクラークが停戦協定書にサイン。

これはたったの15分間で終わり、その後、ただちにこの書類を中国・毛沢東と、北朝鮮・金日成に送付、毛沢東と金日成もサインをして1部は保管、もう1部はクラークへ返送して、停戦の約束が完了です。


これも北朝鮮あるあるですが、朝鮮戦争は北朝鮮1国の栄誉ということになっています。

したがって、現地のガイドの話では、国連に対して北朝鮮と中国が調印したのではなく、北朝鮮対アメリカの、1対1の停戦協定だったと説明しています。



この施設における、現地でガイドをしてくれた軍人の説明の中で最もヒートアップするところは、この建物に展示してある北朝鮮とアメリカの旗のところです。

「なぜ、朝鮮の国旗だけでなく、アメリカの旗がここにあるかというと、クラークは朝鮮戦争に勝てなかったことにあまりにショックで、旗を持って返るのを忘れたほどである。その証拠が、ここにあるこの旗である。」

とのことでした。



壁には、停戦後の北朝鮮とアメリカのやりとり、北朝鮮と韓国のやりとりの歴史などが書いてあります。

1991年に韓国軍が非武装地帯に銃を持ち込み、それに対して北朝鮮側が猛烈に抗議しているパネルなどが展示されています。

1991年の事件であれば、なんで白黒写真なのか、それは不明です。



停戦協定までの北朝鮮側の勇敢な戦いと、栄誉ある交渉過程の説明をみっちり受けたら、次はいよいよ軍事境界線の上に建つ建物である、軍事停戦委員会本会議場です。




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