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よくわかる北朝鮮旅行2016年5月 by 神谷奏六

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平壌の観光スポット 〜祖国解放戦争勝利記念館を見る〜

金正日の肝いりで建て、金正恩の肝いりで4年前にリニューアルしたばかりの祖国解放戦争勝利記念館を見て回ります。



正面の銅像は土台の部分の高さが7メートル、銅像本体の高さが27メートルです。

これは停戦協定が調印された7月27日にちなんでいます。
(北朝鮮人はこの手の数字合わせが大好きです。)



博物館となっているこの建物は、内部は写真撮影厳禁ですので、写真はありません。


この建物も、他の北朝鮮のほとんどの建物と同じく、私たちが行った時だけ灯りがついて、私たちが去るとすぐに灯りが消されます。

建物に入ったら1階の照明はついていたのに2階の照明は消えていました。

その後、2階に上がると、2階の照明はついて、1階の照明は消えていました。


1.朝鮮戦争開戦までの解説ビデオ鑑賞

施設に入ると、最初にビデオを見ます。
各国の言語でのビデオが準備されていて、私たちは日本語のビデオを観ました。


ビデオのタイトルは「朝鮮戦争は、誰が起こしたのか?」

かなり序盤でオチがわかりますが、もちろん、オチは「要はアメリカが起こした」です。


朝鮮戦争開戦までのいきさつについて、ビデオの解説では、

・1948年5月10日に、アメリカ・マッカーサーが南朝鮮にアメリカのかいらい政権を作った
・かいらい政府の代表にはハワイから連れて来た李承晩(イスンマン)を据えた
・1948〜49年にかけて、アメリカを経済恐慌が襲った
・ホワイトハウスは、苦労する財閥に朝鮮をプレゼントしようと決めた
・大統領顧問、ジョンフォスターダレスも開戦に賛成した
・李承晩かいらい政権は、朝鮮(北朝鮮)政府への攻撃の準備を進めていた
・1950年6月25日(日)の早朝4時、アメリカ軍は朝鮮軍が日曜日で休んでいるタイミングを狙って攻め込み、朝鮮戦争が始まった

という解説でした。

今では研究が進んで、朝鮮戦争の開戦前にアメリカは参戦の意思はなかったこと、日曜日の早朝に北朝鮮軍が南へ攻め込んだことがわかっています。

が、ビデオでは大事なところは隠し、事実もちゃんとちりばめながら、かなりそれっぽいシナリオを立ててアメリカによる侵攻の物語を紹介していました。

ある程度は勉強して行かないと(あるいは帰って復習しないと)、洗脳されてしまうか、疑って終わってしまうと思います。


このビデオ、なかなか露骨な演出も見物です。

前半は、ビデオの途中とちゅうで朝鮮の市民が平和に暮らしているイメージ映像を盛り込み、「アメリカの侵攻で、市民の平和は一瞬にして奪われた。」というイメージの刷り込みを徹底しています。

もちろん、「強盗のごときアメリカ帝国主義は〜」と数々のアメリカにつながる枕詞も見物です。




2.開戦後、北朝鮮軍の進撃

ビデオを観たあとは、フロアを移動し、開戦後の快進撃の解説を見ます。

史実でも、開戦後、北朝鮮軍は一気に南へ攻め込み、韓国軍を朝鮮半島の南東の端の釜山(プサン)まで追い込みます。

ここは北朝鮮とすれば、歴史通りに解説すればよいところですので、張り切った解説が期待されます。

博物館のガイドの解説によると、

・開戦わずか3日後、ソウルを解放(韓国から見ると被占領です)
・米軍は大田(デゾン)まで退却するも、朝鮮軍は金日成主席の指導により包囲戦に勝利
・数日後には、敵を釜山まで追いつめ、最大、南朝鮮人の92%を解放(つまり占領)した

とあります。

実際は、序盤の戦いには米軍はほとんど参戦しておらず、戦車で攻める北朝鮮軍に対して韓国軍は大砲のみで防戦するがまったく防げず、ソウルや大田を攻め落とされた、ということが史実としてわかっているのですが、とにかく、最初から北朝鮮軍対米軍の戦いとして紹介されていました。



ところで、この大田の戦いは、その後、包囲戦のモデルにもなっています。

この記念館の最後に、この大田の戦いを紹介したジオラマの部屋を見ることができます。

これがかなりのクオリティです。

立体物と絵とで表現しているのですが、攻め込んでくる感と、街がアメリカの征服から解放されて喜んでる感(この実態はわかりませんが)が伝わってきます。



この他にジャングルの中でどのように野営を組んで戦ったか、どんな地下壕を掘って戦ったのかのジオラマもあります。

これもかなりのクオリティです。

朝鮮人オリジナルの野営の仕方といえば、野営地にオンドルという韓国式の暖房を作って寒さをしのぐのですが、その様子も再現されています。

これらのジオラマは臨場感溢れているのと、実際に兵士がどのように工夫して拠点を作って戦いに耐え抜いたのかを細かいところまで紹介していますので、これは楽しめると思います。



3.国連軍の参入から停戦へ

その後のフロアでは、国連軍の参入から、停戦協定の調印までの流れと、その中で北朝鮮軍が活躍した主な戦いを紹介されています。

博物館のガイドの解説によると、

・釜山まで追いつめられた米軍は、国連に訴え15カ国を引き入れた
・15カ国は仁川(インチョン)から上陸し、釜山を南へ攻める朝鮮軍を北から挟み撃ちしようとした
・これを見抜いた金日成主席は、「戦略的後退」を指導、朝鮮軍は無事北へ引き揚げた
・アメリカは(ソウルの西側の)仁川からの上陸を隠すために、朝鮮半島東側沿岸に戦艦を展開させたりしたが、金日成主席は全て見抜いていた

としています。


現在では、韓国軍が釜山まで追いつめられた時点でアメリカは参戦を決意し、その際にソ連が北朝鮮への国連軍派兵に反対しなかったので、国連軍を連れてアメリカは仁川に上陸、金日成は東海岸での戦艦に気をとられていて対応が遅れ、挟み撃ちにあった多くの北朝鮮兵が犠牲になったことがわかっています。

これが1950年6〜10月頃の出来事です。

客観的に見れば北朝鮮軍の「敗走」なんですが、「戦略的撤退」という表現は、ねつ造でも、洗脳でもない、非常にうまい表現だと思いました。

だって、軍のトップの指導であればおびき寄せていようと、敗走してようと、すべてその行動は「戦略的」なんだから・・・。



史実では、その後、朝鮮半島の北の端の鴨緑江まで米・韓軍(建前は国連軍ですが)攻め込み、こんどは平壌が陥落、逆に北朝鮮が瀕死になります。

これが1950年の10月ですが、このタイミングになって、毛沢東が大量の中国人兵を投入し、中国・北朝鮮軍が38度線まで盛り返し、ここで戦いがようやくこう着状態になります。

博物館においてはこの説明は一切なく、その後の北朝鮮軍の最大の活躍の場である1211(せんにひゃくじゅういち)高地の解説に移ります。

北朝鮮のガイドいわく、

・1951年6月頃より、戦線はこう着状態に
・その中で1952年に1211高地を奪う戦いで北朝鮮軍は勇敢な戦いを見せた
・ここは朝鮮半島東側、金剛山の近くの要所であり、金日成主席より「1211高地を守れ」と指導があった
・これを受けて勇敢に戦い、1211高地を守り抜いた

とのことでした。

博物館では地図があり、1211高地がいかに戦略的に重要かという点について解説されていました。

でも、どう勇敢に戦ったのかの解説はありませんでした。

戦争では軍の本部や、軍港の近くにある高地は、そこから大砲を撃ち込みやすいので、重要なのはわかってるんですが・・・。



その後、この博物館の解説は

・1951年から700回以上の停戦交渉をアメリカが入れて来て、
・1952年にアメリカ大統領がトルーマンからアイゼンハワーになったあとは、アイゼンハワーの戦略をくじき
・停戦協定を経て、「戦勝」に至った

という解説がなされていました。

やはり、この博物館でも停戦は「戦勝」ということになっていました。


他の施設同様、みどころは、かなり偏った歴史認識を楽しむということと、製作物のクオリティは意外にもかなり高いので、それらを楽しむという点かと思います。

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